2006年8月25日 (金)

蚯蚓の戯言<1>

最初にお断りしなければならないのは、幾度となくメスの洗礼をうけられた方々も居られるのを思うと、只一度だけの癌との出会いを仰々しくお聞かせするのもおこがましく、気後れしますが、お引き受けした事を後悔し乍らも筆を執った次第です。蚯蚓の戯言と読み下して頂けたらと思います。
私の肺癌を写し出したのは、とある開業医のX線です。
毎年、市で実施している健康診断はこの開業医で受診するのを常とし胸部写真を撮影してもらって居りました。
両親が癌で亡くなっているので健康には十分注意していたつもりです。
不鮮明な画像の中に朧月の様な形で奇々怪々な影が左肺の上部にあるのが見え悪い予感がしました。平成十二年十月中旬頃でした。
先生の顔に焦りの色が走り「今から紹介状を書きますから、今迄の写真を持って呼吸器内科へ行く様に」と指示されました。市立病院へ急ぎましたがその日は初診患者の受診日でなく結局来週という事となりました。
そこから私の正体不明の影に怯える日々が始まります。

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蚯蚓の戯言<2>

月曜日は血圧測定、採血、心電図、肺活量測定、胸部X線撮影がありMRIは一週間先の予約で帰りに朝一番の起床時の痰の採取を三日分規定容器に入れて検査室へ提出する様申し渡されました。
更に大和病院の骨シンチグラムで全身の骨のX線撮影を受け骨に癌が巣食っていないかを検査され骨には異常無しという事でそのフィルムを呼吸器内科の窓口へ提出。MRIの撮影も終わり判定の日が到来しました。
病院へ行くのが気が重い。何れにしても不安と恐怖の時間は容赦なく迫ってきます。
家内の後ろに隠れる様な心細い気持ちで待合ロビーの椅子に座り何時間待ったでしょう。
その間看護婦さんは、患者の表情を読み取るのが流石に早く、憔悴しきった感覚の中で茫然と時間待ちしている私を見逃す筈はありませんでした。
 再三再四「お待たせしますね 御免なさいね もうじきです」と慰めとも励ましともつかぬ言葉だが声をかけられ嬉しかった。
私の気持ちの中は一刻の有余も出来ぬぎりぎりに追込まれた状態で帰るわけにも参りません。とは云い乍らも時間は過ぎる。
「売店でパンでも買われて腹ふさぎをされる時間はありますよ」と親切にそこまで気を遣って下さるのには恐縮する。
やっと名前が呼ばれる。全身に冷水を浴びた様な身震いすら覚えます。
時計は十三時をとっくに過ぎていました。

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蚯蚓の戯言<3>

診察室の前の長椅子で待つ。私の前の患者さんが肩を落として出て来られる。
「××さんどうぞ」と呼ばれる。家内と共に医師の前に出る。
浅く腰を掛け少々前のめりの格好で落着きの無い坐り方だった。
家内も心配そうに背後に立っている。矢張り落着かないのであろう。
何れにせよもう俎の上の鯉同然、覚悟を決めて検査結果を聞くしか無い。
只最悪でない様にと祈り乍ら医師の言葉を待つ。
医師の重い口が開き、
「普通細胞は丸味を帯びた形状をしているのですが、××さんの場合、顔つきの悪い細胞が・・・」
と何度となく繰返し乍ら歯切の悪い説明から始まった。
端的に「癌です」とも云えず、と云っても伝えなければならぬ医師の立場は辛いだろう。
告知の難しさでしょう。痰の検査報告書を手に持ったり机の上に置いたりで仲々明確な説明が出ない。その報告書の上部はカラー写真、その下の部分の説明は英文で綴られている。
その説明文に私の目は釘付けになり一気に読み下した。
成程医師の言葉に迷いがある筈です。結論としてラングキャンサーであると締め括られています。
咄嗟に「先生癌ですね」と口走った。医師は伏目がちのまま頷かれた。
患者自身の口から癌告知をしたのだから話は早い。でも私はそこまで言うのがせいいっぱいだった。私自身愕然となっていた。これからどうなるのだろう?

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蚯蚓の戯言<4>

静寂の時が流れた。冷静に冷静にと自分を抑え様とするが、足が地に着いていない感じです。
しばらくして私が落ち着いたと判断されたかおもむろに
「直径約五センチ、高さ約六センチ程の鶏の卵位の大きさです」と説明された。
「ああそうですか」と云うのがせい一杯でした。
「抗癌剤治療で何とか治らないものですか?」と聞いたのは矢張り手術の恐怖から逃れたい一心からだったのです。
「それは駄目でしょう」と返事は簡単だった。淡々とした口調でした。
「保証しかねます。切除しかないでしょう。一時的に抑えても、必ず再発し手のつけられぬ状態になるでしょう」医師の言葉は厳しかった。悪童を窘める口調にも似たものだった。
一命を助け様と真剣そのものと受止めました。もうこの辺で覚悟を決め様と思いました。
「病院を紹介します。宇部の山陽病院か藤生の国立岩国病院の何れかです。検討して返事をお待ちします」と云われてその日は終わった。

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蚯蚓の戯言<5>

断崖絶壁に追い詰められた感じである。
紹介状のお願いに伺った時は、癌発見後四十日近く経過していた。
癌細胞は独自でどんどん増殖して体を蝕んでいくと聞いているので気が気ではなかった。
病院は「国病にご紹介下さい」と躊躇せずお願いした。
娘が岩国へ嫁いでいるし、家内の実家も五橋近くで親族が多勢居て、気弱になっている私に勇気を与えて呉れ、心に支えを与えて呉れる様で心強かった。同じ岩国の空の下に私を見守っている人達が居ると思いたかった。
手術は必ず成功すると信じたいが五分五分の勝負だと思えた。
国病へ入院する前に開業医を訪問、今迄の結果報告もあったが主たる目的は、再度X線でその後の影を確認したかったし、手術に向かって先生に一押ししてもらい、覚悟を決めたかったのである。その日のX線写真も矢張り無情にも嘘は吐かなかった。
平成十二年十二月一日に藤生駅に降りたち呼吸器外科の受付に行く。
早速胸部写真を撮って来る様に告げられ、X線室へ。
出来た写真をM医師に渡す。明かりに写真を翳し乍ら、目は写真に釘付けになっておられた。その写真を横目で力なく眺めながら、嫌らしく疎ましくも思った。
急を要する状態であると判断されたらしく、電話で問い合わせをされる口調は険しさを感じました。
「年明け?駄目です。今年中のオペに突込む様に」一刻の有余も赦されないのであろう。
何処の先生も一命を助けるのに真剣に取り組んで居られるのだなあと感激しました。
「手術は十四日の夜中になるが実施します」と言葉厳しく申されました。
瞬間私の脳裏をかすめたのは、学生時代東京で見た外国映画の”悪魔は夜来る”というタイトルのもので何となく夜中のオペはいやだなーと恐怖感で一杯になりました。

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蚯蚓の戯言<6>

入院は十二月六日に決まり、入院用具を携えて、家内と共に光駅から藤生の国病へ、車中は言葉少なでした。容赦なく電車は時刻どおり藤生の駅へ向かって突っ走った。
重い足取りで病院の玄関へ入り入院手続きをとり二階の病室に案内されベッドの枕元に名札が下げられました。六人部屋で皆さんに挨拶回りをしてベッドに落着きました。
早速採血、心電図、肺活量測定と振回され、翌日は癌細胞の採取検査とかで気管に痺れ薬を注入され口に何か銜えさせられ、そこから管が”にょろにょろ”と入っていく、技師が医師の指示に従い右に左に上に下に、探りを入れながら”チカチカ”と虫が噛む様な感じが二三度して管は引き抜かれた。検査の全行程は終わったのだろう。何か不都合があれば説明があるだろうと諦めていた。
十二日はインフォームドコンセントの日。罪人が判決を申し渡されるに似ている。
どんな話なのか想像すると落着かない。執刀医はT医師に変更され紹介がありました。
手術の時間は夜中の手術は避けられ午前九時からと変更があり、ほっとした次第。
家内外身内が揃い医師の説明が始まる。
メスを入れる箇所の図示、輸血が必要になった場合は使用の承諾、手術時間の予定まで事細かな説明を受け納得。皆の署名捺印を以って終了した。
もし手術を中止する希望があれば申出下さいと云った表現もあったけれど今更そんな事、判断する余裕などあろう筈がない。目は虚ろで心は宙に浮き摑み所のない感じであった。
それよりもその場から早く逃げ出したい気持ちで一杯でした。

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蚯蚓の戯言<7>

その翌日手術をサポートする看護婦さんが二人病室に来られ、持参されたアルバムを示し乍ら手術室の説明をされた。それが私にとって眠りを妨げる種となりました。
アルバムで見た手術台の上の投光器は見るからに強烈な感じでした。
病室の消灯時間には廊下の淡い光が扉の明かり取りを通して入ってくるのが物悲しく思えました。足音もなく、廊下の壁づたいに、迫り来る物の怪を想像さえするのです。
会話はなく、静寂そのもので廊下を行く人の足音が幽かに聞こえ夜が更けるのが心淋しく感じられました。余り静か過ぎても寝付かれぬものなのです。
こんなに夜に恐怖感を味わった事は初めてです。
当日は素肌に手術衣を着用しT字帯をつけ午前八時三十分にナースセンターに来る様に通達されていたので同室の皆さんから「頑張って」と励ましの声を背に受け足を踏みしめ乍ら家内と共にゆくと
「御免なさい。準備の都合で二十分程遅れます。病室へ帰ってお呼びするのをお待ち下さい」と云われ一度に力の抜けるのを覚えました。
再度皆さんの「頑張って」の声に送られ、戦時中の出征兵士の壮行風景に似た感じだなーと脳裏をかすめる。
ナースセンターで先ず名前を書いたバンドを手首に巻かれる。
「さあ行きましょう」と促され手術室に歩いて向かった。家内、娘、孫達がついて来て呉れる。死刑囚が刑場へ連れ出される心境もこんなものかとふと考えるのであった。
心なしか、自分の足の運びが遅くなる。手術室の入口で「頑張って」の声に手を振り中に入る。華やかにボクサーがリングへ上がる様な格好よさは望むすべもなかった。

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蚯蚓の戯言<8>

手首のバンドが外されて手術台にあがるまでに四五回名前の確認を受ける。
足継ぎ台があり上がった筈だが記憶にない。それ程目は物を確認できぬ程焦点がずれていたのだ。
今冷静になって思えば、堂々と履物をそろえ一寸横によけきちんと整えて手術に臨めなかったかと慙愧の念が一入。日頃武人の誇り高い精神を持っていたつもりだったのだが失墜。
台の上で体を横にして海老の様に背中を曲げ細いチューブが首の後ろから脊髄に差込まれギューギューギュギューと軋みながら喰込む。これは術後の痛み止めの薬筒に繋ぐ為のものであった。
程なく麻酔がかけられたのか一瞬吾に返る時が感じられ妙な感覚が交錯し、その間を縫うように頭部の一部分は明確に働いている様な夢心持で、未だ醒めやらぬ朦朧とした世界の中を徘徊している内に手術は完了していたのでしょう。三時間の予定が四時間半の手術だったとか。

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蚯蚓の戯言<9>

体は動かない様だが頭の一部が鮮明に働き「トウ マッチ ペイン イズンニット」と叫んでいる声だけが一人歩きして耳に記憶され、今自分は変な事を言ったなと思った時にはスパゲティ状態の生きている自分が在るのに気づいた。
でも未だ夢の中で時間は止まっている様で記憶は点滅状態で不思議な時の流れでした。
そこはICU室で、ねかされている自分をうつつの中に知りました。
再三誰かが私に話し掛けられるのですが只「大丈夫ですかー」と云う声が通り抜けて行くのです。
暫くしてその呼掛けは麻酔担当の医師だと言う事が判りました。やっと現実にもどされた気がしました。
「先生方をはじめ看護婦さん他スタッフの皆様の尽力のお陰で無事手術をして頂き感謝しています。有難う御座いました」
と丁重に礼を述べた後は、それ等の医師は来られなくなりました。頭は元にもどったと思われたのでしょう。その頃から私の頭の中の時計は時を刻み始めました。

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蚯蚓の戯言<10>

時折腕に巻かれた血圧計がブーンと鈍い音をたて腕を締めつけて居りました。
その間を縫って、布袋さんの頭巾の様な帽子を被った家内や娘、孫が心配そうに私を見舞い語り掛け力づけて呉れました。
ベッドに釘付けにはなっているが、生かされたという実感は筆舌に尽くし難くただ涙に変わり茫洋とした時間を過ごして居ました。
翌日は個室に移されました。
その翌日、出張中で多忙をきわめている息子が見舞ってそっと手を握って呉れたのに気づいて目覚めました。二人とも無言で涙が頬を伝います。
個室も一週間程で四人部屋へ戻り脇腹に明けられた穴に差込まれたビニールのチューブから床に置かれた容器の中へ血が溜まるのを「早くよくなって呉れ」と願い乍ら日を追い淡い色に変化しその量も減じていくのを見守りました。
総ての管が取去られ抜糸も済み自由の身になったのは、術後二週間位でしょうか。
正月も病院のベッドで過ごし外は一月の寒風が吹き枯草がゆれ、葉を落した木々は寒々としています。
空は鉛色で時折風花の舞う日もありました。
程なく主治医から
「すべき処置は全部済みました。何時でも退院可能です」
と宣告がありましたが傷あとが未だチカチカ痛みます。
手術前同室だった岩国海上航空隊々員で肺癌の手術を受けられた若い方が「未だ痛いのです」と医師に告げて居られたが、結局退院されたのを痛々しく見ているので、自分は体力に自信のつくまでは頑張ろうと決意は固かった。ベッドにしがみ付いても癒るまで頑張るんだと決心した。

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